ピンコーン。
チャイムの音に志々尾は目を覚ます。学校から帰って、いつの間にか眠ってしまったみたいだ。閉め忘れたカーテンの外は夕暮れの赤に染まっていて、こんな中途半端な時間に一体誰だとのそのそ体を起こせばもう一度チャイムが鳴った。面倒臭いと内心呟きながら玄関へと向かい、覗き穴を覗き込む。
「限、いるなら開けて頂戴」
視界のその先に佇む着物を着た黒髪の女性の姿に、志々尾は慌ててドアを開け放った。


答えのない感情


「どうしたんですか、突然」
「近くに用事があったから、ついでに寄っただけよ」
「仕事ですか?」
「仕事以外に私が裏会出られると思ってるの?」
「・・・・・すみません」
「謝らないでよ。別に悪い事言ったワケじゃないんだから」
「・・・・・・すみません」
「・・・・・・・・・・」
自らが土産として持参した茶を入れろと上がり込んできた夜未に言われるがままに茶を煎れた志々尾は一体何故彼女がこんな所にいるのかとまず思った。彼女は大抵裏界本部か夜行の詰め所に身を置いている。基本的に自分勝手に遠出をしたりすることが禁じられているとは聞いているが、どの程度が遠出になるのかよく解らないので一応聞いてみたのだ。どうやら仕事らしい。
「元気そうね」
卓に片肘をつきながら、志々尾を眺めてポツリと呟いた夜未に志々尾は何と応えたものかと少しばかり顔を顰めた。彼女が夜行にその一員としてやってきたのは、志々尾が烏森に派遣される少しばかり前だった。何やらしでかしたらしいと噂では聞いたが、彼女が一体何をして夜行にやって来る事になったかという経緯を志々尾は知らない。夜行の大人達の一部は多少なりとも事情を知っているようだが、それを子供達に語るような者はいなかった。事情を知るもの達の夜未に対する態度から夜未がしでかしたという事の方向性は何となく解ったので、敢えて深く事情を知ろうとは思わなかった。彼女は大抵頭領に言いつかった事をしていて夜行の詰め所にはあまりいなかったし、いたとしても大抵一人だった。一人で縁側に座ってお茶を飲んでいる姿を何度か目撃するうちに、ふと視線がかち合って手招きをされたのが口をかわすきっかけだった。彼女に初めて投げかけられた言葉は今でも忘れられない。
『辛気くさい顔した子供ねぇ』
言ってから、これでも飲めと煎れたての茶をくれたのだ。彼女はいつも一人で、自分も一人だった。顔を合わせる時は大抵互いに暇を持て余していて、志々尾は夜未の茶を馳走になった。彼女の煎れる茶は美味しくて、日の降りそそぐ縁側で志々尾は大して会話もない、一見無為にも思える二人の時間を何度か過ごした事を思い出す。土産に茶をくれたというのに、茶を煎れてくれない夜未に少しばかりガッカリしながら志々尾は自分の煎れた上手いかどうかも解らない茶の注がれた湯飲みを夜未へと差し出した。
「墨守の次男と上手くやってるみたいね」
茶を一口飲んだ夜未の言葉に志々尾はもう一度困惑した。何と返せばいいのであろうか。
「黙り込んでないで何か言ったら?『そうだ』とか『違う』とか」
「・・・・よく、解りません」
「ああ、そう」
少しばかり呆れた視線が送られる。
「いちいち考え込んで返事しなくてもいいのよ。いっぺん何も考えないで口開いてみたら?」
「・・・・・すみません」
そんな事は、きっと出来ないのだと思う。何も考えずに口を開き、行動し、人の気を損ねてしまうのが怖いからだ。志々尾の心中を読みとったのか夜未はもう一口茶を啜ってから静かに湯飲みを卓の上へと置いた。コトンと小さな音がして、空気が張りつめたような、そんな気がする。
「あんたさ、次男の事好き?」
「!?」
頬杖をついた夜未の言葉に、志々尾の肩が大きく跳ねる。いきなり何を言うのだと、酷く狼狽しながら声をあげれば、別に、と肩を竦めて夜未は少しばかり目を伏せた。微かに瞼を震わせて、少しばかり口を開き、何の言葉も発さないままに唇を引き結んだ。
「夜未さん?」
「・・・・・帰る」
言うなり勢いよく立ち上がった夜未に志々尾は驚いて、思わず言葉を失った。慌てて立ち上がり、既に玄関まで足を進めていた読みの後ろ姿を追いかけ、ドアノブに手をかけた夜未の腕を咄嗟に掴もうとしてすんでの所でその手を止める。その刹那に勢いよく振り向いた夜未は片手をドアノブにかけながら、口元を少しばかり持ち上げて、言った。
「そうやっていつまでも怯えて手を引っ込めていればいいわ」
嘲るように、苛立つように、口の端に歪めた笑みを湛えながら志々尾を見据え、ああ、違うわねと目を眇めた。
「あんたは手を伸ばそうともしないのよね」
彼女が酷く苛立っているのが解った。何か言ってしまったのだろうかと先程の遣り取りを思い出し、特に思いつかなくて志々尾は途方に暮れた。怒らせてしまったのならば謝らなければならないと思うが、ワケも解らずに謝ればこの人は余計に苛立って怒りを爆発させるだろう。迂闊な事は言えないと、それでも何か言わなければならないと、喉の奥を引きつらせながら志々尾が口を開こうとした、その時。
「・・・・ゴメン、八つ当たりしたわ」
夜未の言葉が、それを遮った。
「夜未さん・・・」
「あんた達さ、可愛くて苛めたくなっちゃうのよ」
どうやら自分は苛められていたらしいのだが、志々尾はとてもそうとは思えなかった。ごめん、ともう一度呟いた夜未の方が余程苛められた子供のような顔をしていて、志々尾はわけもなく罪悪感に苛まれた。
「自分の気持ちを大事にしなさいな」
そんな顔しないでいいのよ。俯いた志々尾の髪をくしゃりと撫でつけて、夜未は出て行った。少しばかり泣きそうな笑みが妙に瞼に染みついて、志々尾はワケが解らないままに遠ざかっていく夜未の後ろ姿を只眺めていた。後に残されたのは、二つの湯飲みと、行く先も答えも見えない不可思議な感情だった。


夜未さんは一体何をしに来たんでしょうね(笑)?






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